ニーチェの代表作「ツァラトゥストラ」の中には、山を降りる主人公ツァラトゥストラが神しか愛せない聖者に出会うシーンが出てきます。
その聖者は「今、ワシが愛するのは神だ。ワシは人間を愛さない。人間はあまりにも不完全な代物のように思える。人間への愛はワシを滅ぼすだろう。」とツァラトゥストラに言います。
その聖者と話したツァラトゥストラは「いやはや、とんでもないことだ。この老いた聖者は森の中にいてまだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」と思います。
森の聖者はキリスト教の価値観をそのまま信じている人です。人間を愛せなくなり、神様とだけ戯れている人。
ニーチェが「神は死んだ」と言った19世紀後半のヨーロッパは、科学の考え方や批判的な精神などが出てきて、だんだんとキリスト教の神に対する信仰が薄れてきている頃でした。
「神はいないかもしれない」と考えるようになった人がニーチェだけでなく存在してきた頃です。
そういう時期に、今までのキリスト教の価値観ではない新しい価値観を提示しなくてはならないとニーチェは考えました。
これが「価値の転換」です。

ニーチェは「善/悪」から「よい/わるい」に転換しようとしました。
それは、基準が「神」から「自分がどう思うか」に転換していくということです。
そして、ニーチェは神から見た「善/悪」の価値観の背後にはルサンチマン(恨み、妬み、嫉妬の感情)が潜んでいると言います。
キリスト教の中でよく聞く言葉に「貧しき者こそ幸いだ」「富める者が天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」というものがありますが、この言葉こそが貧しい人や力のない弱い人が強い人間に対して嫉妬している、つまりルサンチマンを持っているとニーチェは考えました。
強い人間を悪く言うには、神様をもってくればいい。
キリスト教の神様は「あいつら(強い人間)は確かにこの現世では富を持ち、政治権力を持っているかもしれない。でも、あいつらは結局、地獄に堕ちるんだ。神からしてみればダメな人間だ。」というようなまさしくルサンチマンが背後にある考え方だと思ったのです。
また、キリスト教は「心清く生きる」という固定的な生き方になってしまうので、生き方の形が決まってしまう。
ニーチェが提示する新しい価値観「よい/わるい」は「よい」が「絶好調な感じ、楽しい、愉快だ、ワクワク」、「わるい」が「つまらない」という考え方をベースにした「生の高揚」なので様々なやり方がある。
いろんなやり方を目指して、様々な人が実験をしていく。
まさに、「生の実験」。生きることは実験であるとニーチェは考えたのです。
「それぞれの人が高揚する生き方を目指していこうじゃないか」というイメージがニーチェの中にあったのです。
ニーチェが言いたかったのは、一番最初に考えなければいけないのは、「自分がどうやったらパワーアップするか」「元気が出てくるか」ということ。
生が高揚して、パワーアップして喜びを感じて生きていくことを重要視したのです。
でも、ニーチェは「善/悪」から「よい/わるい」に価値の転換をするのは簡単ではないとは思っていました。
それまで神が一番大事と思ってきた生き方があります。その神が死んだ。自分が信じられるものがなくなる。
すると人間はどうなるのか?
目標がなくなる。軸がなくなる。自暴自棄になる。
そういう状態のことをニーチェは「ニヒリズム(「すべのものは無価値である」とする考え方)」と言いました。