ニーチェの言う「超人」とは「生の高揚」をとことん実現した人間のことです。
「超人」はルサンチマン(恨み、妬み、嫉妬の感情)も持たず、ちょっとイヤなことがあってもすぐ忘れてしまい、これまでの価値観にとらわれず、絶えず創造的にクリエイティブなパワーにあふれて生きていける人のこと。
「ツァラトゥストラ」の中には次のようなシーンが出てきます。
山を降りたツァラトゥストラは、ある街にたどり着きます。
広場には綱渡りを見るために、民衆が集まってきました。
ツァラトゥストラは「私はあなた方に超人を教えよう。」と言います。
しかし、誰も理解しないばかりか、皮肉まじりにあざ笑う始末です。
そうしているうちに、綱渡り師が綱を渡りはじめました。
ツァラトゥストラは「人間は動物と超人の間に張り渡された1本の綱なのだ。」と言います。
その時、綱渡り師の後ろから道化師のような男が飛び出してきました。
道化師は綱渡り師の背後に近づきます。
そして、悪魔のような叫び声を上げ、綱渡り師を飛び越します。
綱渡り師は狼狽して足を踏み外し、転落しました。
ツァラトゥストラは転落して死んでしまった綱渡り師を背負って歩きます。
彼を手厚く葬るために。
このシーンは全体が比喩になっています。
綱渡り師が人間。
綱はまるで進化論のように、動物から始まり超人に至るまでの過程。
そして、この綱の途中に人間がいます。
とろこが、これを見ている民衆の中には末人(ノミのように根絶しがたい生き物)もいて、「そんなことして何になるの。あんた、そんな想像的な生き方をしようなんてバカなことやめたら」と皮肉に思って見ている人々もいます。
でも、この綱渡り師は創造的な生き方、超人の生き方を目指して進もうとします。
ところが、ここに道化師が現れ、超人を目指して進む綱渡り師の邪魔をします。
おそらく、道化師は「そんなことはやめてしまえ」という人間の中の心の声なのでは・・・?
そして、転落して死んでしまった綱渡り師をツァラトゥストラはわざわざ抱えて、自分で丁寧に埋葬するのです。
そこにはニーチェの中に「失敗していいんだ。どんどん実験しようよ。」という気持ちがあります。
ニーチェは「超人を目指して没落せよ」と言っています。
自分が途中でダメになっても後輩達や子供達にその思いが伝わればいいと考えているのです。
ニーチェは「超人のために死のうとする者を自分は愛する」と言います。
では、超人になるにはどうすればいいのか?
ツァラトゥストラはこう語りかけます。
「私は君たちに精神の三つの変化を告げよう。すなわち、精神がラクダになり、ラクダが獅子になり、最後に獅子が幼子になる有様を。」
・ラクダ・・・いろんな重たいものを担う。自ら求めて担う。いろんな義務を全部引き受けていく。引き受けることで力を貯める。
・獅子・・・否定する。青年期みたいなもの。今までこれが正しいよ、こうするもんだよというものに全部逆らう。ライオンのようにわぁ〜と歯向かう。でも、歯向かっているだけでは超人にはなれない。
・幼子・・・夢中になって遊ぶ。何も考えず綱遊びしたり、全く無垢に楽しいことに全力で向かっていく。まさにその姿が超人。といっても、子供に戻るということではない。大人で理性もあるし、色々分かっているけど、自分の面白いこと、ワクワクすることに全力でもって向かっていける。
ニーチェは幼子にように無垢なまま、でも気力をみなぎらして生きるためには「永遠回帰」の思想を受け入れなくてはならないと言っています。